とりあえず知識を広げようと、古本屋で手に取った本。
読んでみたものの、なんだか「うーん…」という感じ。
面白くなくはないのだが、結構トピックが細切れに並べられていて、一冊の本として流れを欠いている感がした。
知識を得ようと思っても、なにか面白味がなければ、単なる苦痛になってしまう。
個人的な意見として、来年からは海外の人々、特にアジアのもろもろの国の人とコミュニケーションをとっていかなければならなくなりそうだから、宗教しかり、文化しかり、いろいろ身につけなければならない知識があると常々思う。
今日は英会話で、イラク問題について話したのだが、結局日本人である以上、キリスト教がどうだ、イスラム教がどうだ、というのも、直接肌身になって感じられないのが本音だ。
火星について語るときと、パレスチナについて語るときとの間に、親近感という上では、あまり差を感じられないでいる。
それを言い訳にするのは、なんとも情けないことだから、せっせせっせと理解していこうとは思う。
そうそう、この本の初めに書いてあったけど、2025年には、イスラム教がキリスト教を抜いて、世界一の大宗教になるという。
世界の人々の4人に1人はイスラム教徒になるんだとか。
さすがに宗教音痴の日本人でも、それはどえらい変化だと思う。
「なんで?」と聞かれると「なんとなく」と答えてしまうところが、全く日本人らしいのだけれど。
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- 2008/11/17(月) 23:43:51|
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夏目漱石の最晩年における演説集。
「道楽と職業」
「現代日本の開化」
「中味と形式」
「文芸と道徳」
「私の個人主義」
という5つの演説が載っている。
「現代日本の開化」を読んでいて、「どっかで読んだことあるなぁ」と思ったのだが、そういうえば高校の国語の教科書にそのまま載っていたことを思い出した。
個人的には「現代日本の開化」よりも「道楽と職業」「私の個人主義」が面白いと思った。
「道楽と職業」では、職業の細分化について述べられていた。
文明の進歩、あるいは日本の場合は欧米化に伴い、職業が細分化されていく。
以前は一人の人間が、生活に必要な仕事のほとんどを自分一人でこなしてきたが、一人の人間がカバーできる仕事の分野は、時代の変遷とともに、細分化、専門家されていく、ということが述べられていた。
それは専門知識の深化、と捉えることもできるが、別の視点から見れば、専門バカの進行、あるいは一人だけでは生きていけないようになる不具化(この言葉は差別用語やよなぁ…)の進行と捉えることができる。
僕はこの話を読んでいて、生物にしろ、細胞にしろ、職業にしろ、あらゆるものが、高度化に伴い、分化するという方法をとるのだなぁーと、アナロジーっぽいことを考えてしまった。
例えば、大腸菌は単細胞でも生きていけるが、人間の神経細胞は刺激を伝える、という専門的な仕事しかできない、皮膚の細胞、心臓の細胞、然りだ。
けれど、細胞の場合は専門バカの進行を進めることで、大腸菌からヒトのような高度な生物にまで進化することができた。
このやり方が成功した理由は明らかで、それは専門バカの進行と共に、それを全体として制御するシステムを構築したことだ(もちろん時として、各々の細胞がシステムを破って癌化したり、システムが混乱してアレルギーを起こしたりもするのだけれど)。
じゃあ、職業の分化においても同じように、専門バカの進行がうまく進展するためには、それを制御するシステム、つまり社会が進歩しなければならない、ということになる。
こんなことは、わざわざ細胞のアナロジーを使うまでもなく明らかなことだが、やっぱりまとめ役というのは現代の個人主義の世の中だって、というより個人主義の世の中であるからこそ必要なものなんだと思った。
で、まぁ「個人主義」という言葉が出てきたが、この本のタイトルにもある「私の個人主義」という演説は、題名になっただけあって、「道楽と職業」よりも面白かった。
特に、なぜ私が小説家になったのか、という理由について、夏目漱石本人が自分の経験と、それに基づく思索を赤裸々に語った部分が、とても面白かった。
日本に二人しかいない文豪、夏目漱石であっても(もう一人は森鴎外)、小説家になることを決意するまでは、ぐらぐら迷ったり、失望したりと紆余曲折があったのだなぁ、となぜだか少し親近感をもてたような気がした。
夏目漱石の言う、個人主義とは端的に言えば、自分の信じた道を進むこと、という風になるのだが、封建主義が崩壊し、やれ自由だ、やれ個人だ、と言っている現代でさえ(というよりそんなことも言わなくなった現代でさえ)、本当に自分の信じたものを見出せている人は少ないような気がする。
僕もぐらぐらだし。
そういうものを見出すためには、相当何かにコミットしたり、徹底的なまでに思索を突き進めて、心の深いところ(村上春樹なら井戸で例えるような深いところ)まで、自分の足で歩いていかなければならないんだと思う。
好むと好まざるに関わらず、そういうステップを踏んだ人が、満足のいく生活(満足というのが適切な表現かどうかは分からないが)を送っていけるのが、現代という時代なんだし、それを放棄した人は、逆に不満と嘘だらけの人生を歩むことになるんだから、僕もなんとかしないとなぁと毎度のこと思ってしまう。
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- 2008/11/17(月) 00:56:00|
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○○学入門なんて聞くと、大学の教科書か何かかもしれんと思ってしまうのだが、実のところこの「行動学入門」という本は、あっさりしたエッセイのような本だ。
3部構成になっていて、
I. 行動学入門
II. おわりの美学
III. 革命哲学としての陽明学
という順に並んでいる。
あとがきにもある通り、「行動学入門」が男性向け、「おわりの美学」が女性向けという風になっているらしいのだが、どちらもあんまり面白くはなかった。
「革命哲学としての陽明学」では、陽明学の成り立ちと、陽明学が、思索よりも行動を重んじる、結構ラジカルな考え方であることを説明していて、「へぇーそうなんかぁ」と関心させられる部分が多かった。
本全体として、「悶々と考え込まんと、行動を起こせ!」ということなのだが、頭では分かっていても、なかなか腰が持ち上がらん。よくないなぁとは思うけど。
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- 2008/11/11(火) 00:17:35|
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原爆投下後も、日本が降伏しなかった場合のパラレルワールドを描いた、前作「五分後の世界」の第2段となる作品。
主人公はパラレルワールドに迷い込んだ男、オダギリではなく、CNNのキャスター、コウリーなので、前作とは世界設定以外はあまり共通する箇所がなく、前作を読んでいなくても十分楽しめると思う。
ヒュウガ・ウイルスというタイトルの通り、めちゃめちゃえげつない症状を起こすウイルスが物語の主題となっている。
そのえげつなさと言ったら、なにせ、村上龍の十八番であるグロい描写が溢れんばかりの力を放っているため、読んでいて気持ちが悪くなる程だった。
ウイルスが主題となっているだけあって、生物学、特に細胞生物学や免疫学に関する分野の描写がとても詳細に描かれている。
僕自身は分子生物学を専攻しているが、こんなけ知識を散りばめようと思ったら、やたらたくさんの本や文献を引っ張り出さないといけないので、大変だなぁと思った。
ただ、作品全体の感想としては、「五分後の世界」ほどのインパクトがなかったのが、少し残念な気がした。
ところどころ、読んでいてめんどくさくなる部分(地理的説明の箇所)があって、あまり、ぶわーっと流れるように読むことができなかった。
「五分後の世界」の状況設定をわざわざ持ち出さなくても、ウイルスの話で、1作品書けたんじゃないかと思ってしまった。
「五分後の世界」のときは、そういう「こういう話の流れの方がよかったのでは?」なんて思う暇もなく、だだだだだと読めたので、そういう意味でも、少し残念な気がした。
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- 2008/11/06(木) 00:18:05|
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村上春樹の小説を読んでいると、いつも数字の「2」というものについて考えてしまう。
「海辺のカフカ」しかり「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」しかり、物語の中には大きく2つの軸がある。
「あちら側」と「こちら側」、「主体」と「客体」、「生」と「死」、「日常」と「非日常」…。
呼び方はいろいろあるけれど、2つの軸が物語の中に頻繁に現れる。
2つの軸が存在する、ということは強調されると奇妙なことのようだが、普段の生活を見渡せば、とても当たり前のことなのだということが分かる。
例えば、ものごとを考える際には、事柄を「分類」するという行為が、たいていの場合役に立つ。
分類をするに当たって、一番簡単な分類の仕方は、2つに分類してしまうことだ。
なぜなら、1つ対象を決めた時点で、そこにはすでに2つの分類が生じるからだ。
「対象となるもの」と「対象とならないもの」。
たった1つのサッカーボールしかなかない風景があったとしても、その時点で、そこには2つの分類が成り立つ。
「サッカーボール」と「サッカーボール以外のもの」(もちろん世界自体がサッカーボールではないとして)。
「スプートニクの恋人」でも、2つの軸が色んな形で提示されている。
しかも、繰り返し、繰り返し。
そして、その軸の分類が、つまり、境界線が時として、曖昧になるということを物語っている。
「あちら側」と「こちら側」が混じってしまうことも、「今までの自分」と「変わってしまった自分」のハザマで混乱することも。
この軸の混じり合う状態は、「夢」という言葉で表されている。
たとえ、2つの軸を並存させることが現実的に困難であっても、夢の中でなら2つの内のどちらも損なうことなく、生きていくことができる。
例えば、「理想の自分」と「現実の自分」だって、夢の中ならなんのギャップを生じることもなく並存させることができる。
けれど、夢はいつかは覚めてしまう。あるいは、覚まさなければならないのかもしれない。
夢の後では、並存していたものが、引き剥がされ、何かが決定的に損なわれてしまう。
それでも、なんとか歩んでいくためには、
(1)技巧的な対処法をあみ出す (諦める、損なったものを無視する、表面的に取り繕う、等)
(2)外部から新しいものを受け取る (捜し求める or 待つ)
という方法があるように思う。
「スプートニクの恋人」では、物語の最後に「ぼく」が(2)の「待つ」という行為から、損なわれたものを取り戻す場面が描かれている(ように思う)。
それは、出来事という外部からのはたらきかけ、という形をとっているので、なんだか読んでいる方としては「付け足し」のような印象をもってしまう。
ちょっと、そこのところはどう考えるべきか悩むところではあるけれど、とても色んなことを考えさせられる小説だった。
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- 2008/10/30(木) 01:08:50|
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